肥前名護屋城の石垣
名護屋城には、さまざまな石工技術によって石垣が築きあげられています。
それまで戦国大名の軍事機密であった石工の技術は天下統一した豊臣秀吉の号令によって名護屋城が割普請によって築かれることとなり、お互いの技術が、その後の築城に活かされたとされています。
これまで、名護屋城の築城に関しては、天正19年(1591)8月23日付けで石田正澄から肥後(人吉)相良長毎に宛てた書状に「来年三月朔日ニ、唐へ可被入旨候、各も御出陣御用意尤候、なこや御座所御普請、黒田甲斐守(黒田長政)・小西摂津守(小西行長)、加藤主計(加藤清正)被仰出候、筑柴衆軍役三分一ほとつゝ用捨仕候へと御諚候云々」とあり、豊前中津の黒田、肥後の小西・加藤に築城を命じ、「筑紫衆」すなわち九州大名には軍役の三分の一を免じて城普請に従事するよう命じている。また、『黒田家譜』の「其縄張りを孝高(黒田如水)に命ぜらる、……十月より斧初あり」などの史料から、天正19年後半に工事を開始し、翌年3月には既に完成していたと考えられている。尤も内藤昌氏によれば、4・5ケ月で本城が竣工したとしてもそれは、石垣の土木工事と、天守および本丸の主要殿舎であって、文禄元年3月、工事に当った九州諸大名が一斉に渡海出撃した後、ほぼ入れ違いに名護屋に参陣した全国大名が、本丸・二ノ丸・三ノ丸・山里丸の各門・櫓・書院・数奇屋などの作事などに当ったとされている。これらから、当初の名護屋城の石垣は主に九州大名によって築かれたと考えられる。
さらに、当時の名護屋城の石垣については、「御城の石垣なとも、京都にもまし申候由、石をみなわ(割)りてつき(築き)あけ申候、てんしゅ(天守)なともじゅらく(聚楽)のにもまし申候」(常陸国佐竹義宣の家臣平塚滝俊の文禄元年五月朔日付の国元への書状)とあり、石を割って、石垣を築き、それらは京の聚楽第を凌ぐ名護屋城の様子を伝えている。
現在では、築城後400年余を経過し、当時の建物は既にないが、石垣が名護屋城の歴史を伝えている。名護屋城跡の保存修理事業は、名護屋城がこれまでたどってきた歴史を最も重視しつつ進めている。即ち、築城から破却までの歴史を最も示す現地の様子をそのまま後世に伝えることである。そのためには、名護屋城の石垣の特徴を把握することが大前提で、その検討を進めながら城の修理を進めてきた。
名護屋城跡の石垣については、文禄・慶長期の僅か7年余りの短期間の構築と推定されているが、石材の加工度や石垣の積み方の観点から大別される。 名護屋城跡の石垣は、大小の自然石(野面石)を絶妙に組み合わせ、その中に若干の粗割石が混在する城郭の野面石積みである。その典型的な石積みは、山里丸の虎口に当たる山里口や本丸の南側・馬場南側に顕著である。一方、自然石(野面石)を半裁し、割った面を表面に見せる積み方も観察される。これらは、天守台や本丸の北側・遊撃丸などに卓越して見られる。
石垣は、隅角部と築石部で構成されるが、特に石垣の隅角に積み方の特色がよく表れてくると言われている。ここでは野面石または粗割石を角石に見たて、ノミ加工は行わず、石材の長い方を左右に互い違いに重ねていくいわゆる「算木積み」が認められる。また、角石として加工した石材を主に組み合わせ、控えが短く左右の引きが余りない石を使用している箇所もあり、角の稜線を丸く仕上げている特色がある。築石部を観察すると、自然石(野面石)を主体に安定性を重視した横積みを基本とした技法と粗割石を主体とした技法がある。粗割石を用いた石積みの中には、布目積みを意識したものとそうでないものの2種がある。
名護屋城跡の石垣で特徴的な積み方のひとつに「縦石積み」と呼ばれるものがある。これは東出丸や山里丸の石垣の一部に見られ、危険度の高い縦方向に石を積む技法で高度な技術を要する。特に東出丸の櫓では3石を連続して積み上げている。また、三ノ丸南西櫓台の西面は搦手口から馬場方面に侵入した場合、進行方向の正面にあたるが、この位置に名護屋城跡で最大の3つの巨石を配している。石垣修理の際、その最も大きな石材の法量が調べられ、重さが11トン、高さが2.9m、幅1.7m、奥行が0.7mを計り、大きな石面に対して奥行きがない「鏡石」であることが確認された。
佐賀県立名護屋城博物館 特別企画展「肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城」展示図録 転載・引用
佐賀県立名護屋城博物館 肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城