名護屋城ってどんなトコ?

肥前名護屋城

真田幸村 在陣の地

真田陣は五ヶ所もあった?
真田昌幸、信之、信繁(幸村)親子が集まった地、名護屋。

織田、北条、上杉、徳川氏の間を巧みに立ち廻り「表裏比興之者」と呼ばれた真田昌幸、
松代十万石と沼田三万石を治めた真田信之、大坂の陣では真田丸を築き「日本一の兵」と云われた真田信繁。
真田親子が集った名護屋には真田陣比定地が五ヶ所存在します。

昌幸(1547〜1611)

昌幸は比興者=卑怯者か?

幸綱(幸隆)の三男。武田信玄に近侍し、武藤氏を継ぐ。天正三年(1575)、長篠の戦いで兄信綱・昌輝が戦死し、真田氏の家督を継ぐ。天正8年(1580)、北条氏の沼田城を攻略。天正十年(1582)、武田氏の滅亡により、織田信長の家臣滝川一益の配下となる。本能寺の変後は、北条・上杉・徳川氏の間を巧みに立ち廻り、天正十三年(1585)頃、豊臣秀吉に臣従し、次男信繁を秀吉のもとへ出仕させる。天正十七年(1579)、秀吉の命により沼田領を北条氏に割譲するが、天正十八年(1590)の小田原攻めによる北条氏滅亡後に沼田領を回復。信濃国上田(約4万石)・上野国沼田(約3万石)を領す。天正二十年(1592)の「唐入」(文禄の役)では名護屋に在陣する。慶長五年(1600)、家康に対して挙兵した石田三成方に付き、上田城で徳川秀忠の軍勢を退ける。関ヶ原での石田方の敗退後、次男信繁と共に紀伊国高野山麓の九度山に配流。慶長十六年(1511)、同所で死去、65歳。

信幸(1566〜1658)t

信之は長寿だった!

昌幸の長男。天正十七年(1589)、昌幸が徳川家康に臣徒した際に家康に出仕。天生十四年(1586)、家康の養女となっていた本多忠勝の娘(小松姫)を妻とする。天正二十年(1592)の「唐入」(文禄の役)では名護屋に在陣する。文禄三年(1594)、徒五位下、伊豆守に叙任、豊臣姓を賜る。慶長五年(1600)、家康に対して挙兵した石田方には付かず家康に従う。関ヶ原での家康勝利後、昌幸の旧領上田を含めて加増され九万五千石を領する。「信之」に改名。慶長19・20年(1614)、大坂冬の陣・夏の陣では病床にあり、子の信吉・信政を参陣させる。元和8年(1622)、信濃国松代に移封。松代領十万石と沼田領三万石を領知する。明暦2年(1656)、松代領を信政に、沼田領を信吉の子信利に譲り隠居。万治元年(1658)、松代で死去、93歳。

信繁(1567〜1615)

「幸村」の名前は実名か?

昌幸の次男。天正十三年(1585)、徳川勢の上田城攻めを父、昌幸と共に撃退。天正十三年(1585)、上杉景勝との盟により上杉氏に出仕。同年、昌幸が秀吉に臣徒し、信繁を秀吉に出仕。天正十五年(1587)、大谷吉継の娘を妻とする。天正二十年(1592)の「唐入」(文禄の役)では秀吉馬廻として名護屋に在陣する。文禄三年(1593)、徒五位下、左衛門左に叙仕、豊臣姓を賜る。慶長五年(1600)、父昌幸と共に家康に対して挙兵した石田方に付き、上田城で徳川秀忠の軍勢を退ける。関ヶ原での石田方の敗退後、父昌幸と共に紀伊国高野山麓の九度山に配流。慶長十九年(1614)、大坂冬の陣において大坂城に入城。真田丸を築き徳川方を撃退。慶長二十年(1615)、大坂夏の陣において討死、49歳。

文禄・慶長の役における真田氏の動向

マップ

参考資料 佐賀県立名護屋城博物館提供 改変