名護屋城ってどんなトコ?

肥前名護屋城

特別史跡を見てみよう。

 

特別史跡を見てみよう。

日本全国に1,760箇所ある史跡の中で、国の文化の象徴たる「特別史跡」は61ヵ所しかありません。
そして戦国・江戸時代に建てられた城は、名護屋城、大坂城、江戸城、名古屋城、安土城、熊本城、姫路城、彦根城の8箇所です。
その8箇所のお城をデータで比較してみましょう。

戦国・江戸時代に建てられた「特別史跡8城」

姫路城

別名:白鷺城 赤松貞範

姫路城は、播磨国飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。この他、「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。

姫路城

江戸城

別名:千代田城 太田道灌

15世紀の関東の騒乱で江戸氏没落後、扇谷上杉氏の上杉持朝家臣 太田道灌が、享徳の乱に際し康正3年(1457年)に築城。当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度、推測できる。それによれば「子城」「中城」「外城」の三重構造で、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城北側に菅原道真が祀られて梅林があったと記されている。

江戸城

熊本城

出田秀信(千葉城) 鹿子木親員(隈本城)別名:千葉城(出田氏) 隈本城(鹿子木氏/菊池氏/城氏/佐々氏/加藤氏半国期) 銀杏城

熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある。

熊本城

安土城

織田信長

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城である目加田(目賀田)支城があった。 信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。

安土城

大坂城

別名:金城・錦城 豊臣秀吉

現在、地表に見える大阪城の遺構は江戸時代のもので、1959年(昭和34年)大阪城総合学術調査にて、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるものであることが確認。大坂城は、上町台地の北端に位置し、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れ天然の要害であり、川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々は古墳時代の古墳があったと言われ、戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦で焼失。『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価しており、跡地にさらに大きな城を築く予定であったいう。

大坂城

名護屋城

別名:名護屋御旅館 豊臣秀吉

名護屋城は、肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市(旧東松浦郡鎮西町・呼子町)東松浦郡玄海町)にあった城で豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に際して出兵拠点として築かれた城である。名護屋は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、松浦党の旗頭・波多氏の一族である名古屋氏の居城、垣添城が存在。豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、前線基地として大掛かりな築城を行い、面積は約17ヘクタール、当時では大坂城に次ぐ規模を誇った。周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、全国から20万人を超える人々が集まり、繁栄したといわれています。

名護屋城

名古屋城

別名:金鯱城・金城・柳城・亀屋城・蓬左城 徳川家康

名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。大坂城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。

名古屋城

彦根城

別名:金亀城 井伊直継

江戸時代初期、現在の滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城(標高50m)。山は「金亀山(こんきやま)」との異名にちなみ金亀城(こんきじょう)ともいう。多くの大老を輩出した譜代大名 井伊氏14代の居城。明治時代初期の廃城令に伴う破却を免れ、天守が現存。天守と附櫓(つけやぐら)及び多聞櫓(たもんやぐら)の2棟が国宝に指定され、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し国の重要文化財に指定。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少。大隈重信の上奏により1878年(明治11年)に建物が保存されることとなる。

彦根城

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