名護屋城ってどんなトコ?

肥前名護屋城

年表からみる名護屋の歴史

 

文禄・慶長の役の激動の7年間。豊臣秀吉は名護屋で何を思うのか?

豊臣秀吉の大陸制覇の野望の前線基地となった名護屋。日本の中心となった名護屋では何が起こって何が行われていたのか?
築城に際し、縄張りを黒田孝高、そして黒田長政、加藤清正、寺沢広高らが普請奉行となり、
九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で約6ヶ月後の文禄元年(1592年)3月に完成しました。
ルイス・フロイスが「あらゆる人手を欠いた荒れ地」と評した肥前名護屋には、
全国より大名衆が集結し「野も山も空いたところがない」と水戸の平塚滝俊が書状に記しています。
唐入りの期間は、肥前名護屋は日本の政治・経済の中心となりました。

佐賀県立名護屋城博物館 特別企画展「肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城」展示図録 改変