名護屋城と「黄金の茶室」
豊臣秀吉がつくらせた「黄金の茶室」は、秀吉の美意識をあらわすものとされています。
この黄金の茶室は肥前名護屋城において政治・外交の場で使用されました。
肥前名護屋城で、4回の黄金の茶室の使用が確認できています。
5月16日に漢城入城の知らせが届き、18日には天皇を中国に移す三国構想を表明。そして翌29日には、いよいよ現実性を帯びた秀吉や在陣衆の在陣衆の渡海に向けて、輸送船の集積を命じる朱印状が発される。
6月3日付朱印状で明国侵攻を命じる。しかし、この頃から水軍の劣勢が伝えられるなど、戦況悪化が深刻に。
安田弥市郎が名護屋に赴いた日は不明。しかし、一揆の鎮圧が6月17日で、7月22日には秀吉が大坂へ向けて発つため、それまでの期間中となる。7月初旬か?
前年秋ごろから戦況が悪化し、日本軍にとって厳しい状況が続く中で行われた対面儀礼。この時の使節は「勅使」と称されるも、実際には小西行長と明国の沈惟敬(遊撃将軍)との間で準備された仮の使節であった。
⇒使節の真偽を秀吉知っていたか否かについては不明であるが、中国皇帝の使節が秀吉のもとを訪れる。という特筆すべき外交儀礼の場として設定された意義。
参考資料 佐賀県立名護屋城博物館提供 改変
名古屋市秀吉清正記念館「豊臣秀吉自筆茶会客組」
秀吉が茶会の客組をしたためたもの。記される人物から、天正20年の名護屋城山里丸での座敷ひらき(11月14~17日)である可能性が高い。