名護屋城ってどんなトコ?

肥前名護屋城

集まり広がる 能・茶・石垣

 

名護屋城と「黄金の茶室」

豊臣秀吉がつくらせた「黄金の茶室」は、秀吉の美意識をあらわすものとされています。
この黄金の茶室は肥前名護屋城において政治・外交の場で使用されました。
肥前名護屋城で、4回の黄金の茶室の使用が確認できています。

茶会:1日目

漢城(ソウル)陥落後、大名衆を招いた茶会

  • 天正20(1592)年5月28日、名護屋城で「黄金の茶室」を披露。
    博多の豪商・神屋宗湛が記す茶会記(宗湛日記)に詳細が記される。
  • 在陣中の大名衆を6人ずつ7組に分けて招き、それぞれ壁に
    名前を書いた書付を見てから、「礼無し」に茶室に入る。
    点前は秀吉ではなく、茶の住吉屋宗無であった。
  • 宗湛のグループでは、宗湛を含む3名が茶室に入り、残りの3人は
    「緑」に円座を敷いて座った。先に雑煮が出され、次に御茶となった。
    御茶の時には緑の3人も茶室に入った。

背景

5月16日に漢城入城の知らせが届き、18日には天皇を中国に移す三国構想を表明。そして翌29日には、いよいよ現実性を帯びた秀吉や在陣衆の在陣衆の渡海に向けて、輸送船の集積を命じる朱印状が発される。

茶会:2日目

スペイン領フィリピン総督の使節ファン・コーボを歓待

  • 天正20(1592)年7月8日、フィリピン総督の派遣した
    使節ファン・コーボら一行を名護屋城で歓待した際に「黄金の茶室」を披露。
  • 天正19年9月に秀吉がフィリピン総督へ服従を要求する書簡を送ったが、
    ファン・コーポはそれに対する使節として派遣された人物。
    秀吉は服属使節と理解していた可能性もある。
  • 会見までの間、一行は重臣の邸宅(大名の陣屋か?)に宿泊している。

背景

6月3日付朱印状で明国侵攻を命じる。しかし、この頃から水軍の劣勢が伝えられるなど、戦況悪化が深刻に。

茶会:3日目

梅北一揆鎮圧の功鎮圧の功をねぎらう

  • 天正20(1592)年6月15日、島津氏家臣の梅北国兼らが名護屋城に向かう途中に、肥後・佐敷城を奪取(梅北一揆)。
  • 秀吉は浅野長政に鎮圧を命じるが、
    17日には加藤清正家臣の手で国兼は討ち取られる。
  • このとき鎮圧に功のあった安田弥市郎が褒美に帷子や馬を拝領し、さらには
    名護屋城において「黄金の茶室」で茶を振る舞われていることが
    兄・加藤重次の書状にみえる。

背景

安田弥市郎が名護屋に赴いた日は不明。しかし、一揆の鎮圧が6月17日で、7月22日には秀吉が大坂へ向けて発つため、それまでの期間中となる。7月初旬か?

茶会:4日目

明国「勅使」の歓待

  • 文禄2(1593)年5月23日、明国使節(謝用梓・徐一貫)と秀吉が名護屋城で対面。
  • 秀吉や大名は正式な「御装束」。三献ののち「黄金の茶室」で食事・茶が振る舞われた。
  • その後も茶会や舟遊び等で歓待したことが記録に残る。
  • 国使節は6月28日まで名護屋に滞在、出立に際して秀吉は講和のための7条件を提示

背景

前年秋ごろから戦況が悪化し、日本軍にとって厳しい状況が続く中で行われた対面儀礼。この時の使節は「勅使」と称されるも、実際には小西行長と明国の沈惟敬(遊撃将軍)との間で準備された仮の使節であった。
⇒使節の真偽を秀吉知っていたか否かについては不明であるが、中国皇帝の使節が秀吉のもとを訪れる。という特筆すべき外交儀礼の場として設定された意義。

参考資料 佐賀県立名護屋城博物館提供 改変
名古屋市秀吉清正記念館「豊臣秀吉自筆茶会客組」

豊臣秀吉自筆茶会客組

豊臣秀吉自筆茶会客組(名古屋市秀吉清正記念館蔵)

秀吉が茶会の客組をしたためたもの。記される人物から、天正20年の名護屋城山里丸での座敷ひらき(11月14~17日)である可能性が高い。

豊臣秀吉自筆茶会客組

名護屋城山里丸の草庵茶室

名護屋城山里丸の草庵茶室