名護屋城ってどんなトコ?

肥前名護屋城

地図からみる文禄・慶長の役

 

文禄・慶長の役で朝鮮に築いた城

仕置之城について

日本の城の石垣の技術は百済から伝えられたと言われている。
戦国時代においては全国で城が築かれ、石垣の技術も大幅に向上した。
文禄・慶長の役において朝鮮に築かれた城は、戦国武将の経験によって大幅に向上した築城技術が用いられたので、
それまで長らく戦がなかった李氏朝鮮の城に比べて防御力が高く、実戦的であった。
朝鮮に築かれた仕置之城は和平が結ばれて慶長の役が終わるまで、明・朝鮮の攻撃を受けても一度も落城することはなかった。

マップ

佐賀県立名護屋城博物館 特別企画展「秀吉と文禄・慶長の役」展示図録 改変

けい長の役に築いた城

釜山母城
釜山広域市東区、毛利輝元・小早川秀秋らの築城
ふさんかいの城とも呼ばれる。文禄・慶長の役に際しての最も重要な拠点であり、渡海を命じられた諸将は、まず、この釜山に上陸している。現在、山頂部に石垣が点在しているが、高石垣は少ない。隅角部は、左右の引きが強い算木積みとする。シノギ角も有り。本丸部に改造の跡。石材に矢穴痕有り。
釜山子城
釜山広域市東区、毛利秀元の築城
母城より、約1km東方の独立丘陵を占める。周囲を巡る高石垣は良好に残存している。隅角部の一部には縦石積みもみられるが、左右の引きが強い算木積みとする。築石部は、野面石の布積みで安定している。勾配にゆるやかな反り。虎口の一筒所を改造し、封鎖している。
釜山子城跡
釜山子城跡
東莱城
釜山広域市東莱区、吉川広家の築地
ときくねの城とも呼ばれる。朝鮮時代の邑城としては確認できるものの、城の明確な痕跡はほとんど見られない。近年、城跡の周辺(堀跡)の調査で日本刀などが出士している。
加徳城
釜山広域市江西区、毛利輝元の築城
釜山の沿岸から45kmほどの沖合の島。北側の対岸には、安骨浦城・熊川城が設置される。本城は、島の湾口の東西両側に築かれているが、その両地域の石垣の様相はまったく異なる。東側の石垣は日本の構築技術であり、高石垣ではないが、石垣の隅角部は左右の引きがやや弱いが算木積みとする。一方、西側は高麗時代の技術であり、その城への改造も確認できない。
亀浦城
釜山広域市北区、小早川隆景らの築城
かとかいの城とも呼ばれる。洛東江河口の東岸微高地に設置される。石垣や空堀が良好に残存している。石垣の勾配は、ほぼ矩方。一部の隅角部に縦石積み・シノギ角を採用するが、基本は左右の引きが強い算木積みである。虎口部に鏡積みもみられる。石材に矢穴痕有り。
亀浦城跡
亀浦城跡
機張城
釜山広域市機張郡、黒田長政の築城
くちゃんの城とも呼ばれる。朝鮮半島の東側沿岸部には、南からこの機張城・林浪里城・西生浦城、そして蔚山城が配置されている。本城は、釜山より約20km北東に位置し、東側沿岸のひとつの重要拠点。石垣・空堀・土塁などが良好に残存する。石垣の隅角部に縦石積みを多用。勾配は、わずかに反りがみられるものの矩方を基本とする。石垣に矢穴痕有り。石垣の改造の跡がかなり顕諸である。また北側の石垣に豆毛浦鎮城(高麗時代)の石垣が残っており、その一部を取り込んでいる。
機張城跡機張城跡
林浪里城
釜山広域市機張郡、毛利吉成らの築城
せいぐはんの城とも呼ばれる。機張城と西生浦城との中間に位置する。規模はこれら両城よりもかなり狭い。石垣だけではなく、建物礎石も残存している。その柱間は、約2m(6尺5寸)。また、城の北側を大堀切で分断する。櫓台には高石垣を用いるが、他は比較的低い。隅角部は、算木積みではあるが、左右の引きはそれほど強くない。
金海竹島城
釜山広域市江西区、鍋島直茂・勝茂の築城
きむかいの城とも呼ばれる。洛東江河口の右岸微高地に設置されており、当時は島状の地形か。石垣(特に、虎口部)・竪堀が残存している。石垣の一部には、改造の跡有り。隅角部には、控えが長い角石を用い、左右の引きが強い算木積みとする。虎口・通路部分には、鏡積みも使う。また、頂部の中核区域の築石は、やや整った野面石の布積みとする。
金海馬沙城
金海市生林面、鍋島直茂・勝茂の築城
鍋島氏の支城であり、竹島城(本城)より約20km北西方の小規模な丘陵に位置している。石垣はみられず、櫓台状の平坦地と土塁を確認できるのみ。城であろうか。
新沓城
金海市酒村面、鍋島直茂・勝茂の築城
鍋島氏の支城であり、農所城とも呼ばれる。竹島城(本城)より約6.5km西北西方の微高地に位置している。大堀切・石垣・土塁が残存。石垣は、中核の曲輪部分にみられるだけであり、高くない。それ以外の状況は不明。
孤浦里城
梁山市東面、築城者も築城時期も不明
近年の開発でほぼ消滅しており、不明。史料にも、ほとんど示されていない。
安骨浦城
鎮海市安骨洞・脇坂安治・九鬼嘉隆らの築城
あんかうらいの城とも呼ばれる。南側沿岸部の突出した半島状の尾根筋に配置される。海域を一望できる要衝の地。三箇所に分かれて、石垣構築がみられる。城のなかでは良好に残存する城跡のひとつ。隅角部には横長の控えが石材を用い、左右の引きが強い算木積みとする。勾配は矩方のみとやや反りを付けるものがみられる。また縦石積み・ヤセ角・鏡積み・輪取りなど、かなり多様な技術を駆使している。
西生浦城
蔚山広域市蔚州区、加藤清正の築城
せっかいの城とも呼ばれる。東側沿岸部の回夜江河口近くに配置された、大規模な石垣構築の城である。その中核部には数度の大改造の跡がみられるとともに、斜面部には下る石垣(いわゆる登り石垣)も確認できる。清正によるためか、隅角部には通常の算木積み・縦石積みの他に、控えが短く引きがない技術も採用する。また、本城の当初の石垣とは異なり、積み足した箇所や海岸側の子(支)城などには明瞭な反りがみられる。
西生浦城跡
西生浦城跡
熊川城
鎮海市南門洞、小西行長らの築城
こもかいの城とも呼ばれる。安骨浦城の西側に配置される。やはり、海域へ突出した微高地に築城。当時の重要拠点であり、城のなかでも最大規模。山頂部の天守台を中心に大規模な石垣がめぐっているが、それから斜面を下る石垣(いわゆる登り石垣)と空堀も配置する。隅角部には、引きの強い算木積み・弱い算木積み・縦石積みを用いる。勾配はややゆるやかに反る。南東面の築石の一部に積み足しの跡も有る。
熊川城跡熊川城跡
明洞城
鎮海市熊川二洞、宗義智か松浦鎮信の築城
熊川城の西側の丘陵に位置し、その支城と思われる。この頂部・北部尾根・南西尾根も三箇所に小規模な石垣を配置する。また、北西尾根の東側には竪堀、西側には連続竪堀がみられる。隅角部は算木積みを基本としているが、控えが長く引きの強いものと控えが短く引きの弱いものがみられる。築石には鏡積みも用いる。
子馬城
鎮海市熊川一洞、築城者も築城時期も不明
ほかの城とやや異なり、河川あるいは海域から遠く離れ、まったくの内陸部に配置されている。標高240mほどの山頂部一帯に位置しているが、この南側山麓部を釜山と慶尚南道西部・全羅南道の間を結ぶ古来からの主要道が通っており、陸上交通の要衝の地でもある。城との認識はされていたものの、踏査例は少ない。頂部一帯に石垣がみられるが、城の技術ではない。しかし、山麓部には大堀部には大堀切や三重の土塁、それに連続竪堀などが設置されており、眼下の交通路をにらむ築城技術が用いられている。
松眞浦城
巨済市長木面、福島正則らの築城
鎮海湾を臨む巨済島北部には、三箇所に城を築いている。特に、西へ開く長木湾は要衝の拠点であったようであり、湾口の北側の岬には本城を、南側には長門浦城を置く。岬の頂部は二箇所に分かれており、それぞれに石垣がみられる。隅角部は、控えが長く左右の引きが強い算木積みと控えが短いものの両方を使うが、後者の例がやや多い。縦石積みもみられる。また、鏡積みも有る。勾配は、石垣が高くないこともあり、矩方で積む。石垣の一部には改造の跡も有り。
長門浦城
巨済市長木面、蜂須賀家政・福島正則・長宗我部元親らの築城
湾を挟んで、松眞浦城の対岸に配置される。その丘陵の頂部と一段低い北尾根筋の二箇所に石垣がみられる。しかし、それぞれに天守台と想定される石垣構築が置かれており、やや特異な縄張りを為している。互いに別々の城か。松眞浦城と同様、隅角部には左右の引きが強い算木積みを採る例が多いが、一部にそうでないものもみられる。高石垣であるが、勾配はほぼ矩方を採る。
長門浦城跡長門浦城跡
永登浦城
巨済市長木面、島津義弘の築城
巨済島の北端に配置されており、その眼下の海域を挟んで、対岸には熊川城・安骨浦城が置かれている。天守台から西あるいは南へ延びる尾根筋に、曲輪が展開している。石垣は良好に残存しているが、高石垣はみられない。隅角部にはやや大きめの石材を用いているが、それらの控えは短く、左右の引きも弱い。築石部にも大きめのものを使い、一部には鏡積みも有る。

慶長の役に築いた城

蔚山城
蔚山広域市中区、浅野幸長らの築城
鶴城とも呼ばれる。慶長の役に際し、最も北側に配置された城。蔚山湾へ流れ込む太和江の河口近くの丘陵部に築城。石垣の隅角部などに意図的な破却がみられるが、周辺部の石垣は良好に残る。築石部に横長の石材を選び、それらを布積みとする。算木積みの左右の引きはそれほど強くない。縦石積みも有り。勾配は矩方を採る。また、築石には横長の石材を多用しており、野面石の布積みとする。
梁山城
梁山市勿禁面、黒田長政の築城
勿禁甑山城とも呼ばれる。洛東江の河口から約20kmさかのぼった左岸の微高地に配置された、内陸部の城。かなり破壊されているが、低い石垣を確認できる。隅角部は、控えが短く左右の引きが弱い算木積みである。縦石積み、鏡積みもみられる。
見乃梁城
巨済市長沙等面、築城者は不明
城洞城とも呼ばれる。巨済島の北側の海域は、当時の海上交通の幼少であったが、その西側の狭い海狭を眼前に臨む場所に設置されている。微高地先端の低平な地形に置かれており、その選地は他の城とまったく異なる。周囲に石塁を巡らせるとともに、陸地側には堀も置く。石塁の上部がかなり破壊されており、その基礎部を何とか確認できる程度である。勾配が強く、それほど高い石垣ではなかったようである。大量の瓦(朝鮮時代か)も確認できる。
固城城
固城郡固城邑、吉川広家らの築城
鎮海湾に浮かぶ巨済島・閑山島一帯の海域は、両水軍によってかなり重要な区域であったようであり、それぞれの拠点が点在している。本城は、その西側の固城湾のやや陸地側に設置されているが、これは固城邑城を取り込んでいることにも因る。遺構の残存状況はそれほど良好ではなく、石垣の一部を確認できるに過ぎない。野面石を用いた石垣であり、隅角部・築石部がみられる。
馬山城
馬山市山湖洞、鍋島直茂・勝茂の築城
ちゃわんの城とも呼ばれる。巨済島の対岸に位置し、馬山湾の最奥部の小丘陵に築かれている。その頂部一帯に、曲輪や石垣を確認することができる。石垣の隅角部は、控えが短く左右の引きが弱い算木積みとする。勾配は、矩方のみで積む。
南海城
南海郡南海邑、脇坂安治らの築城
船所里城とも呼ばれる。巨済島の西方海域に浮かぶ大島であり、その東岸の小丘陵に築かれている。天守台とその周辺の石垣が良好にみられる他、北側斜面には連続竪堀も確認できる。石垣の隅角部は、安定した算木積みである。築石部には、かなり大きめの石材を多く用いており、巨石も確認できる。
泗川城
泗川郡龍見面、毛利吉成らの築城
船津里城とも呼ばれる。半島と南海島との間が最も狭い所を露梁海峡と称している。この海域がひとつの重要拠点とみられ、南に南海城を、そして北に本城を配置している。海側へ突き出た岬に築かれており、東側を除く三方が海に面し、自然の要害でもある。朝鮮国の重要拠点であった晋州城から、南へわずか17kmしか離れていない。城域も宏大であり、東側の陸地を二重の大濠で分断するほか、外郭を高土塁と空堀で、中核部を石垣・竪堀などで築き、厳重に防御している。石垣の隅角部・築石部は、ともに人為的に破却されており、上部はほぼ残存していない。隅角部は、控えが短く左右の引きが弱い算木積みである。築石部には、かなり大きめの石材を用いる。鏡積みも有る。
順天城
順天市海龍面、宇喜田秀家らの築家
全羅南道に一箇所だけ構えられた城であり、最も西側に配置されている。露梁海峡を西へ抜けた袋小路状の光陽湾の西奥側に位置し、小さく突き出た丘陵に築かれている。城域はやはり宏大であり、外郭を外堀・土塁・石塁で防御するほか、中核部及び虎口空間を石垣とする。ただし、天守台の隅角部は、人為的に破却されている。他の城と異なり、隅角部には粗割石を多用する。また、控えが長く左右の引きが強い算木積みと、控えが短いものがみられる。勾配は、まったくの矩方である。各虎口部には、かなり大きめの石材を用い、鏡積みとする。