日本軍の合戦・進軍
日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。
秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。
小西行長や加藤清正らの快進撃に大混乱となって首都を放棄した朝鮮国王宣祖は明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。
明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。
休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった。
佐賀県立名護屋城博物館 特別企画展「秀吉と文禄・慶長の役」展示図録 改変
「文禄の役」における全体的な陣容については諸説あるが、
朝鮮国渡海の軍勢として約16万、名護屋在陣将兵としては、秀吉側近衆・徳川家康以下約11万人、
他に京都の警固として関白秀次以下10万人が動員されたとも云われる。
渡海の軍勢は、九州・四国・中国地方に所領を有する大名を主体として構成され、地域的な軍団に編成されている。
また、各軍団の中核には、織豊系大名が配置されている。
豊臣政権下における軍役等は、基本的に所領の知行石高に基づいたものであり、
渡海大名の軍役についても原則的に総知行石高内の役高100石につき九州の大名は5人、
中国・四国の大名は4人の軍役が課されていたものと想定されている。
但し、動員された軍勢の全てが純戦闘員というわけではなく、
例えば九州肥前国福江の五島純玄に課された軍役700人中、
陣夫と想定される「小人」・「下夫」は約300人と相当の割合を占め、水夫も200人を占め特徴的である。
また、諸大名は、この戦役による軍役動員を通じて、軋轢の生じた面もあるが
家臣団との主従関係・領国支配体制を強化していったことも指摘されている。
「文禄の役」渡海軍の構成 | 諸将名 | 城 地 | 石高(万石) | 人 数 |
---|---|---|---|---|
一番
18,700人 |
宗義智(羽柴対馬侍従) | 対馬・府中 | ー | 5,000 |
小西行長(小西摂津守) | 肥後・宇土 | 14.6 | 7,000 | |
松浦鎮信(松浦刑部卿法印) | 肥前・平戸 | 6.0 | 3,000 | |
有馬晴信(有馬修理大夫) | 肥前・日野江 | 4.0 | 2,000 | |
大村喜前(大村新八郎) | 肥前・大村 | 2.0 | 1,000 | |
五島純玄(五嶋大和守) | 肥前・福江 | 1.4 | 700 | |
二番
22,800人 |
加藤清正(加藤主計頭) | 肥後・熊本 | 19.5 | 10,000 |
鍋島直茂(鍋嶋加賀守) | 肥前・佐賀 | 31.0 | 12,000 | |
相良頼房(相良宮内大輔) | 肥後・人吉 | 1.8 | 800 | |
三番
11,000人 |
黒田長政(黒田甲斐守) | 豊前・中津 | 12.0 | 5,000 |
大友吉統(羽柴豊後侍従) | 豊後・府内 | 23.6 | 6,000 | |
四番
14,000人 |
毛利吉成(毛利壱岐守) | 豊前・小倉 | 6.0 | 2,000 |
島津義弘(羽柴薩摩侍従) | 大隈・栗野 | 21.4 | 10,000 | |
高橋元種(高橋九郎) | 日向・県 | 5.0 | 2,000 | |
秋月種長(秋月三郎) | 日向・高鍋 | 3.0 | ||
伊東祐兵(伊藤民部大輔) | 日向・飫肥 | 1.7 | ||
島津豊久(嶋津又七郎) | 日向・佐土原 | 2.8 | ||
五番
25,100人 |
福島正則(福嶋左衛門大夫) | 伊予・今治 | 11.3 | 4,800 |
戸田勝隆(戸田民部小輔) | 伊予・大洲 | 7.0 | 3,900 | |
長宗我部元親(羽柴土佐侍従) | 土佐・浦戸 | 9.8 | 3,000 | |
蜂須賀家政(蜂須賀阿波守) | 阿波・徳島 | 17.3 | 7,200 | |
生駒親正(生駒雅楽頭) | 讃岐・高松 | 16.7 | 5,500 | |
来島(得居)通之・通総(来嶋兄弟) | 伊予・恵良、伊予・来島 | 0.3・1.4 | 700 | |
六番
15,700人 |
小早川隆景(羽柴小早川侍従) | 筑前・名島 | 30.7 | 10,000 |
小早川秀包(羽柴久留目侍従) | 筑前・久留米 | 7.5 | 1,500 | |
立花宗茂(羽柴柳川侍従) | 筑後・柳川 | 13.2 | 2,500 | |
高橋統増(高橋主膳) | 筑後・三池 | 1.8 | 800 | |
筑紫広門(筑紫上野介) | 筑後・福島 | 1.8 | 900 | |
七番
30,000人 対馬在陣 |
毛利輝元(安藝宰相) | 安芸・広島 | 112.0 | 30,000 |
八番
10,000人 壱岐在陣 |
宇喜多秀家(備前宰相) | 備前・岡山 | 47.4 | 10,000 |
九番
11,500人 壱岐在陣 |
豊臣秀勝(岐阜宰相) | 美濃・岐阜 | 不明 | 8,000 |
細川忠興(丹後小将) | 丹後・宮津 | 11.0 | 3,500 | |
計 158,800人 (※陣立書は158,700人) |
「文禄の役」第二次晋州城攻めの陣立 | |||||||||
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鍋島直茂 | 7,642 | 小西行長・宗義智・松浦鎮信・
大村喜前・五島純玄・有馬晴信 |
7,415 | 宇喜多秀家 | 7,785 | 一柳右近大夫 | 406 | 毛利輝元 | 13,600 |
黒田長政 | 5,082 | 石田三成 | 1,646 | 竹中隆重 | 246 | 小早川隆景 | 6,596 | ||
加藤清正・相良頼房 | 6,790 | 長谷川秀一 | 2,470 | 大谷吉継 | 1,535 | 服部一忠 | 693 | 小早川秀包 | 400 |
毛利吉成 | 1,671 | 細川忠興 | 2,296 | 木村重茲 | 1,823 | 谷衛友 | 340 | 立花宗茂 | 1,133 |
島津義弘 | 2,128 | 昌原十一人衆 | 4,400 | 太田半次 | 石川貞通 | 298 | 高橋直次 | 288 | |
高橋元種 | 741 | 浅野長政・幸長 | 4,000 | 山田藤蔵 | 宮部長煕 | 912 | 筑紫広門 | 327 | |
秋月種長 | 388 | 織田秀信人数 | 4,018 | 稲葉貞通 | 638 | 垣屋恒総 | 201 | ||
島津豊久 | 476 | 伊達政宗 | 1,258 | 明石元知 | 363 | 南条元清 | 803 | ||
伊東祐兵 | 706 | 黒田孝高 | 325 | 斎村広秀 | 370 | 荒木重堅 | 450 | ||
別所吉治 | 313 | ||||||||
小 計 | 25,624 | 小 計 | 26,182 | 小 計 | 18,822 | 小 計 | 8,744 |
総計 92,972人
佐賀県立名護屋城博物館 特別企画展「秀吉と文禄・慶長の役」展示図録 改変
秀吉は、文禄5年(1596)年9月の講和交渉の決裂後、即座に再侵攻の態勢整備を命じる。
帰国していた加藤清正・小西行長等の九州諸大名には早急に渡海する命令が下され、中国・四国の大名等については年明けの渡海が指示される。
また「仕置之城」についても、明国・朝鮮国の反攻に備えて兵力の増強や兵粮等について指示し、臨戦態勢を取らせている。
大坂での交渉決裂後も、明使・朝鮮通信使の帰路に伴った小西行長は、
秀吉に接見を許されなかった朝鮮通信の正使黄慎を通じて、また、加藤清正は、義兵僧推政(松雲大師)を通じて、和平を模索するが、
朝鮮国側に対して朝鮮国王子の来謝等を含む朝鮮国の日本への服属要求を内容とする和平案であったため結局失敗に終わる。
慶長2(1597)年2月21日、秀吉は九州・中国・四国の諸大名を主力とした総勢約14万の陣立を定め、日本軍は最終的な戦闘態勢に入る。
「慶長の役」渡海軍の構成 | 諸将名 | 城 地 | 石高(万石) | 人 数 |
---|---|---|---|---|
先手
24,700人 ※加藤・小西、 先手二日替わり、 但し鬮取り |
加藤清正(加藤主計頭) | 肥後・熊本 | 19.5 | 10,000 |
小西行長(小西摂津守) | 肥後・宇土 | 14.6 | 7,000 | |
宗義智(羽柴対馬侍従) | 対馬・府中 | ー | 1,000 | |
松浦鎮信(松浦刑部卿法印) | 肥前・平戸 | 6.0 | 3,000 | |
有馬晴信(有馬修理大夫) | 肥前・日野江 | 4.0 | 2,000 | |
大村喜前(大村新八郎) | 肥前・大村 | 2.0 | 1,000 | |
五島純玄(五嶋大和守) | 肥前・福江 | 1.4 | 700 | |
三番
10,000人 |
黒田長政(黒田甲斐守) | 豊前・中津 | 12.0 | 5,000 |
鍋島直茂(鍋嶋加賀守) | 肥前・佐賀 | 31.0 | 12,000 | |
毛利勝信(毛利壱岐守) | 豊前・小倉 | 6.0 | 2,000 | |
毛利勝永(同豊前守) | ||||
島津豊久(嶋津又七郎) | 日向・佐土原 | 2.8 | 800 | |
高橋元種(高橋九郎) | 日向・県 | 5.0 | 600 | |
秋月種長(秋月三郎) | 日向・高鍋 | 3.0 | 300 | |
伊東祐兵(伊藤民部大輔) | 日向・飫肥 | 1.7 | 500 | |
相良頼房(相良宮内大輔) | 肥後・人吉 | 1.8 | 800 | |
四番
12,000人 |
鍋島直茂(鍋嶋加賀守) | 肥前・佐賀 | 31.0 | 12,000 |
鍋島勝茂(同信濃守) | ||||
五番
10,000人 |
島津義弘(羽柴薩摩侍従) | 大隈・栗野 | 55.9 | 10,000 |
六番
13,300人 |
長宗我部元親(羽柴土佐侍従) | 土佐・浦戸 | 9.8 | 3,000 |
藤堂高虎(藤堂佐渡守) | 伊予・板島 | 7.0 | 2,800 | |
池田秀勝(池田伊予守) | 伊予・大洲 | 2.0 | 2,800 | |
加藤嘉明(加藤佐馬助) | 伊予・松前 | 6.2 | 2,400 | |
来島通総(来嶋出雲守) | 伊予来島 | 1.4 | 600 | |
中川秀成(中川修理大夫) | 豊後・岡 | 6.6 | 1,500 | |
管達長(管平左衛門尉) | 伊予・牧 | 1.5 | 200 | |
七番
11,100人 |
蜂須賀家政(蜂須賀阿波守) | 阿波・徳島 | 17.3 | 7,200 |
生駒一正(生駒讃岐守) | 讃岐・高松 | 16.7 | 2,700 | |
脇坂安治(脇坂中務少輔) | 淡路・洲本 | 3.0 | 1,200 | |
八番
40,000人 |
毛利輝元(安藝宰相) | 安芸・広島 | 112.0 | 30,000 |
宇喜多秀家(備前宰相) | 備前・岡山 | 47.4 | 10,000 | |
釜山浦城 目付 | 小早川秀家(筑前中納言) | 筑前・名島 | 30.7 | 10,000 |
太田一吉(太田飛騨守) | 豊後・臼杵 | 6.5 | 390 | |
安骨浦城 | 立花宗茂(羽紫柳川侍徒) | 筑後・柳川 | 13.2 | 5,000 |
加徳城 | 高橋直次(高橋主膳正) | 筑後・三池 | 1.8 | 500 |
筑紫広門(筑紫上野介) | 筑後・福島 | 1.8 | 500 | |
金海竹島城 | 小早川秀包(羽柴久留目侍従) | 筑前・久留米 | 7.5 | 10,000 |
西生浦城 | 浅野幸長(浅野佐京大夫) | 甲斐・府中 | 21.7 | 3,000 |
佐賀県立名護屋城博物館発行 「秀吉と文禄・慶長の役」