名護屋城ってどんなトコ?

肥前名護屋城

集まり広がる 能・茶・石垣

 

豊臣秀吉と能

豊臣秀吉は名護屋に滞在中、無聊をかこつため能道具を大坂から多数運ばせ、大和猿楽の四座の役者を名護屋へ下向させました。
そして北政所へ出した書状に「のふ十はんおほへ申候」と書かれていることから能を十番覚えたとされています。
また金春太夫に謡本百番を整理させたと言われています。

安土桃山時代から、能が大きな変化をとげ、その引き金となったのは絶対的権力を握っていた豊臣秀吉の政策です。秀吉が能に心を奪われるようになったのは晩年ですが、その熱中ぶりは妻への手紙に「能の稽古で忙しい」と書くほどでした。秀吉の情熱は自分で能を稽古しただけにとどまりません。1594年[文禄2年]天皇の住まいでの能の催し[禁中能]や、みずからの功績を題材とした能「太閤能」の新作など、他の権力者以上に能にのめり込んでいきました。さらに、自分が贔屓にしていた金春(こんぱる)をはじめ、観世(かんぜ)・宝生(ほうしょう)・金剛(こんごう)のいわゆる大和四座の役者たちに給与[配当米]を与え保護することで、支配下におきました。他の多くの座は大和四座に吸収されたり消滅しましたが、この保護政策が次代にも受け継がれました。能は秀吉のおかげで今日まで続くことができたともいえます。

大阪城天守閣 豊臣秀吉自筆書状

秀吉は能役者?

秀吉は素人役者でありながら本職の役者をしのぐ活躍をしていたと記録されています。また秀吉が書き残した多くの伝書は、当時の能の姿を知る上での第一級資料とされています。秀吉がまだ能に夢中になる以前、毛利家の催しにわざわざ少進を呼び出し、彼の能を観たことがありました。秀吉が能に興味を持つきっかけは、少進の芸のすばらしさにもあったと考えられています。

秀吉に能を教えた「暮松新九郎」先生!

能役者の暮松新九郎(くれまつしんくろう)は、秀吉に能を教えた1人です。朝鮮との戦のために名護屋に滞在していた秀吉のもとに、新年の挨拶に新九郎が参上したことがきっかけで、秀吉は暮松新九郎の指導のもと、稽古を始めます。つまり秀吉が能に熱中するきっかけを作った張本人。新九郎は金春大夫安照(やすてる)とともにお気に入り役者の1人となり、秀吉の能三昧の生活を支えました。

秀吉よりも先に能稽古をしていた秀吉の甥、秀次。

豊臣秀次(とよとみひでつぐ)は秀吉の甥で、秀次が能を好んだのは秀吉よりも早く、下間少進に手ほどきを受け、当時ほとんど演じられていなかった秘曲『関寺小町(せきでらこまち)』を舞ったほどでした。さらに、当時最高の知識人を集め、『謡抄(うたいしょう)』という能の詞章の註釈書を編纂したことからも、能への関心の高さがうかがえます。親族に秀次のような能好きがいたことは、秀吉に少なからず影響をあたえたはずです。

のふ十はんおほえ申候

豊臣秀吉は名護屋に滞在中、五十日で十番もの能をおぼえたと伝えられています。下記の史料は大阪城天守閣が所蔵する秀吉自筆の書状です。秀吉の正室・北政所に送った本書状には、おぼえた十番の能の曲目とこれからも重ねて能を練習することが書かれています。秀吉が能に夢中になっていることが伝わってくる貴重な史料です。

のふ十はんおほえ申候