陣跡スタンプ 詳細

豊臣秀保

この陣跡に行く
豊臣秀保(1579〜1594)
大和国郡山城主
豊臣秀吉の甥にあたる。兄は関白秀次・丹波中納言秀勝。秀吉の最も信頼していた弟秀長の養子となり、相続した後は、大和中納言と呼ばれた。文禄の役では、名護屋に駐屯。陣屋は20haを越え、最大規模を誇る。その中核である第一陣の発掘調査では、堅固な石垣で構築された曲輪の内部に、書院建物・瓦葺き二層櫓・数寄屋・庭園などを発見。その様子は、「名護屋城図」屏風の描写と驚くほど一致している。

概要
秀吉が朝鮮半島、大陸に向けて発した戦役で文禄元年(1592)から秀吉の死によって終わりを告げる慶長3年(1598)までの7年間、戦いが繰りひろげられましたが、一方では陶磁器など我が国の文化にも大きな影響を与えました。
戦いには秀吉の号令一下、全国の主だった武将のほとんどが参集しましたが、その時の戦略基地として主要な舞台となったのが、この鎮西町を中心とする東松浦郡上場地区一帯です。人口は最盛期には20万人をこえたとも伝えられ、名護屋城を中心に丘陵の上には百数十の諸将の陣屋が立ち並び、商人・工人の町も形成され、一大都市として大いに繁栄したといわれております。この様子は、当時描かれた「肥前名護屋城図(屏風)」(佐賀県立博物館蔵)からも、十分うかがうことができます。
羽柴秀保陣は、これら武将が滞在した陣屋のひとつで、名護屋城の西の要衝に配置されています。陣は第一陣と第二陣からなり、それぞれ石垣・石塁・土塁・段落ち・空堀などによって構築されていますが、それらは諸陣の中でも、大規模かつ堅固な構えをもつものです。
なお羽柴秀保陣は、秀吉の姉婿三好吉房の子で、関白秀次・小吉秀勝の弟にあたります。そして、後には秀吉の異父弟秀長の養嗣子となり、秀長死去後、大和郡山(奈良県)を所領として相続した武将です。