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堀秀治陣跡入口

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堀秀治陣跡入口
堀秀治の略歴
この陣の主である堀秀治は、その当時越前北ノ庄(今の福井県福井市)を領地とする約18万石の城主で、文禄・慶長の役には、6,000人の兵を率いて、開戦当時16歳の若さで参陣しました。しかし、秀治自身は渡海せず、戦いの間この陣で生活しました。
このあと、秀治は越前春日山(今の新潟県上越市)45万石に移され、31歳で没しました。その後堀家は、秀治の子忠俊の代で改易となりました。

陣の概要
秀治の父である堀秀政は、早くから豊臣秀吉に仕え、その信頼も厚かったためか、子である秀治のこの陣は、本城から近く面積も11haと大規模なものです。陣は大きく分けて6つの曲輪(平らに造成した陣の一区画)で構成されており、遺構の残りも良好で、文禄・慶長の役に参陣した武将たちの生活ぶりを今に伝えています。ただ、残念なことに生活期間が短かったために、遺物は少量しか出土しませんでした。

保存整備事業
ここ堀秀治陣跡は、昭和56年度から62年度まで発掘調査を行い、またこれと平行して昭和59年度から平成3年度まで環境整備を行いました。
この陣跡は名護屋城本城を核とした、『歴史探訪ゾーン』の中の一つで、この他に豊臣秀吉の甥にあたる豊臣秀保陣跡や、織部焼で有名な茶人の古田織部陣跡、肥前佐賀の鍋島直茂陣跡等があります。
平成4年3月佐賀県教育委員会